トップ > 商品一覧 > 碑林博物館 拓本 > 碑林博物館 拓本ページ1

碑林博物館 拓本1
 |
T01 爨宝子碑
爨宝子碑は太亨四年(紀元405年)四月、爨宝子が二三歳の
若さで亡くなったのを悼み
建立されたものです。書体は楷書・隷書で、文字の大小が違い、
独特の美感を表した書体として
今日にまで観賞されています。康有為<広芸舟双楫>が
「端朴若古仏之容」と
高い評価をしました。
(端荘素朴で、古い仏像の容貌に見える)漢字の変化、
書道及び少数民族史の研究に極めて
重要な資料で、勿論、重要文化財の一つです。
爨は苗字の一つ、宝子は名前、中国西南地域の少数民族の首領、
建寧郡太守を世襲しました。
墓誌銘で作者は不明です。 |
|
碑林博物館 拓本2
 |
T03 穆亮墓誌
墓誌銘なので作者不明ですが、
碑に彫られた人物は穆亮(451~502)と言います。
字は幼輔。代郡の人。献文帝のとき、中山長公主をめとり、
?馬都尉に任ぜられ、趙郡王に封ぜられます。孝文帝がたつと、
征南大将軍・護西戎校尉となって、仇池に鎮します。
宕昌王梁弥機が没し、子の弥博がたちますが、
吐谷渾に迫られて仇池に逃れます。
穆亮は梁弥博に代えて梁弥承を立て、吐谷渾を討ちます。
楊卜を広業太守に立てると、西辺は静まります。
召されて侍中・尚書左僕射となり、のち司空に累進します。
帝が洛陽に南遷すると、武衛大将軍を加えらます。
孝文帝が南征すると、録尚書事となり、
洛陽の留守を守ります。宣武帝のとき、尚書令となり、
司空公に転じます。死後、太尉を追贈されました。
穆亮墓誌銘は大魏景明二年(紀元502年)刻まれ、
1925年洛陽で出土、今は碑林博物館に保存。
魏体楷書のお手本としては最高級クラスです。 |
|
△このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本3
 |
T05 元槇墓誌
元槇墓誌銘
北魏孝文帝太和二十年(紀元496年)に刻まれ、1926年洛陽で出土。
今まで発見された一番早く刻まれた北魏墓誌で、
北魏中期の典型的な碑刻です。
現在は碑林博物館に保管されています。 |
|
△このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本4

この石碑は李斯の達筆。書体は篆書。
日本でも有名ですが李斯について:
?~前210 中国,秦代の丞相。楚の上蔡(現在の河南省上蔡県の西)の人で若いころ郡の下級官吏であったが,志を立て,荀子に教えを受けた。のち,秦に入って丞相呂不韋(りょふい)の舎人となり,才能を認められて,秦王政(のちの始皇帝)の側近の官に任用され,秦の外交策を立案して成功をおさめ,客卿に登用された。前237年(始皇帝10),秦は他国出身者を追放する逐客令を出したが,彼の反対意見で中止しました。のち廷尉となり,秦の天下統一が実現すると丞相となった。彼は,郡県制・文字の統一・法律の制定などを初め,諸子百家の書を焼かせて政治批判を防ぐことを進言し,秦の政治の基礎を確立することにつとめた。長男李由は三川の守となり,息子も娘もみな皇帝の子女と縁組みし,権勢を誇った。前210年(始皇帝37)の巡幸に随行し,途中,皇帝の死にあうと,宦官の趙高と画策し,胡亥(こがい)を二世皇帝にたてた。しかし,陳勝・呉広の反乱がおこると,李斯父子の責任が追求され,宦官の趙高にもはかられて,腰斬の刑に処せられた。 |
T06 秦 李斯沢山刻石
山
刻石
の読み下し文
皇帝の国を立つるや、
維
れ初めは昔にあり、世々
嗣
ぎて王を称す。
乱逆を討伐して、威は四極を動かし、武義もて直方ならしむ。
戎臣
、詔を奉じ、時を経ること久しからずして、六の暴強を滅ぼす。
廿
有六年、高号を上薦して、孝道は顕明たり。
既に奉成を献じ、
乃
ち
専
き恵みを降さんとて、
親
ら遠方を巡る。
山に登り、群臣従者、
咸
な悠長ならんことを思う。
乱世を追念すれば、
土
を分け
邦
を建てて以て争理を開く。
攻戦日々に
作
り、血を野に流すこと、
泰古
より始まる。
世々万数となく、
施
きて五帝に及ぶも、
能
く禁止する莫し。
廼
ち今皇帝、天下を
壹家
として、兵は
復
た起こらず。
災害は滅除せられ、
黔首
は
康
んじ定まりて、利沢は長久ならんとす。
群臣、略を
誦
えて、此の楽石に刻み、以て経紀を
著
せり。
|
|
△このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本5
 |
T07 漢 張遷碑
正式名称<漢故穀城長蔭令張君表頌>
張遷の功績を称された文章。作者不明。東漢霊帝中平三年(紀元186年)二月刻まれ、明代出土。アンバランスで独特な魅力を感じできる隷書です、評価も極めて高いものです。 |
|
△このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本6
 |
T08 漢 曹全碑
正式名称<漢合陽令曹全碑>、<曹景完碑>とも言います。
東漢中平二年(紀元185年)十月に刻まれ、明万暦初出土。現在、国宝として碑林博物館に保管。筆触再現型の流麗、華麗優美な隷書八分体の頂上作。臨書手本として大変人気のあるものです。。
曹全、字は景完。敦煌効穀(今甘粛省敦煌の西に故城があり)の出身。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本7
 |
T09 張猛龍碑
正式名称<魏魯郡太守張府君清頌之碑>
北魏正光三年(紀元522年)正月魯郡太守であった張猛龍の頌徳碑です。魏楷の一典型とされています。日本の西川寧の楷書の基盤もこれだと思われます。
用筆は、方筆で、結体は、六朝の楷書としてはやや縦長で、整っています。
中心線よりも左を広くのびのびとして、右下を軽く短めに作るのが特徴です。
筆は畳みこむようにリズミカルな鋭いタッチではこびます。随所に逆筆を使って、峻抜(しゅんばつ)、沈着な感じを表します。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本8
 |
T10 東晋 王義之草訣歌
王義之の達筆を参考して、草書の書き方を誰でも分かる様に編集した草書啓蒙書。
楷書で釈文が付いているので、読みやすくて便利です。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本9
 |
T11 東晋 王義之大唐三蔵聖教
王羲之 集字聖教序
王羲之の行書の中から文字どおり字(墨跡)を集めて聖教序全文を構成したもの。
王羲之(307-365)は東晋の人、唐の太宗によって書聖と称えられた。聖教序はその太宗の頃三蔵法師玄奘が西域を経て天竺にいたり貴重な仏典を唐にもたらした。その翻訳にあたり太宗の助力を求めた。玄奘を優れた知識と経験が太宗の心をを動かしてついにその強力な援助を得ることができた。玄奘はこの翻訳事業いっそう意義あるも のとするために推薦文を与えるよう太宗に求めた。それが聖教序である。創業間もない唐朝の確立を急ぐ太宗と危機的な状況にある仏教の興隆を図る玄奘との間に行われた交渉には両英傑のはげしい息づかいさえ感じられる。
|
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本10
 |
T12 唐 顔真卿多宝塔感応碑
<大唐多宝塔感応碑>は唐天宝十一年(紀元752年)刻まれた石碑。顔真卿の達筆、当時顔真卿は44歳。これを書道のスタートとして練習する人が多いです。
中国書道史では、とかく王羲之を正統派とし、顔真卿を革新派の書とする。彼は755年に起こった安録山の乱に対し、一人兵を出して武勇を挙げ忠臣としての名をほしいままにし、また781年の李希烈の乱に際しても果敢に挑み、結局悲憤の最期を遂げた。顔真卿の楷書の特徴である「蚕頭燕尾さんとうえんび」の法も、すでに北斉時代の仏教摩崖にその筆法の源流が窺える。顔真卿の作品で現在知られるものには楷書碑が多く、それぞれに特徴があり、「一碑一面貌いちひいちめんぼう」と評される。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本11
 |
T13 唐 顔真卿家廟碑
正式名称<唐故通議大夫行洩薜王友柱国贈秘書少監国子祭酒太子太保顔君廟碑銘並序>
碑は中国のの国宝級クラス文化財。唐建中元年(紀元780年)七月に刻まれた物で顔真卿七十二歳の作、彼の最後の巨作、絶筆です。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本12
 |
T14 唐 顔真卿勤禮碑
顔勤禮(顔真卿の祖父)の頌徳碑、顔真卿71歳の作。晩年の作品の中でも評価が非常に高いものです。1922年長安で出土。国宝。完全に保存された神品。
顔真卿という人物に関して
唐の忠臣、書家。顔之推后世の孫。楷、行、草に秀でていた。平原の太守として安史の乱に大功を立て、のち吏部尚書、太子少師。李希烈が反した時、これを招諭することを命じられたが捕えられ、監禁の後に殺された。文忠と贈り名し、顔魯公と呼ばれる。(709ー785) |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本13
 |
T15 唐 褚遂良聖教記
唐永徽四年(653年)チョ遂良58歳の時の作品。(文章は高宗李治作っり、技法は、華麗で、しかも厳しく、世に言うチョ法を確立したものとし て古来有名です。縦横自在、天衣無縫な用筆です。チョ遂良は唐風書道の開拓者。
褚遂良という人物に関して
初唐の書家。字は登善。銭塘の人。596年長安での生まれ。博学で楷隷の書を能くし、また太宗に仕えて諌議大夫、起居郎に進む。高宗の時、尚書右僕射。武氏(則天武后)の皇后冊立に反対し愛州(今のベトナム北部)に左遷。(596-658) |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本14
 |
T16 唐 欧陽詢行書千字文
欧陽洵行書千字文
唐貞観三年に刻まれた物。初唐三大家の一人欧陽洵の作。千字文は千個の字を使っていますが、重複した字一つもないだけでなく、文章も韻をふんでいて、覚えやすくなっているので、、昔から子供の教科書のようなものとなっていました。文章の内容は懐素草書千字文と同じですが、行書ですから分かりやすくて草書版の釈文として活用してもよろしいかと思います。 |
| △このページのTOPへ |
碑林博物館 拓本15
 |
T17 唐 柳公権玄秘塔碑
正式名称<唐故左街僧録内供奉三教談論引駕大徳安国寺上座賜紫大達法師玄秘塔碑銘並序>
唐会昌元年(841)十二月に刻まれ、柳公権64歳の作。顔(真卿)欧(陽詢)柳(公権)趙(孟頫)四大家の一人で、書道史に大きく名を残している。 |
| △このページのTOPへ |
戻る