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西安写真館 華清池
驪山の北の麓に位置する景色が美しい温泉観光地。ここにある温泉は2700年前に発見され、昔から離宮や風呂場などを王朝が造った。なかでも有名なのは唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な華清宮で、楊貴妃が利用した海棠湯をはじめ、太子湯、蓮花湯などの温泉のあとを見ることができる。
華清池の入り口
華清宮その1
湯元の一つ
唐代の宮廷宴会を表した壁画
庭 その2
楊貴妃
楊貴妃の風呂海棠湯
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トイレも宮殿式
華清宮その2
唐代のお風呂
庭 その1
玄宗皇帝の風呂
楊貴妃の風呂はここ
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華清池のさらに詳しい説明
華清池は西安から東に30キロ離れた驪山の北側の麓に位置しています。驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元があるため、西周から唐代までの帝王が享楽に耽った所でした。西周時代末期の周の幽王はここを驪宮として時々愛妃褒似を伴なって酒宴をしていた。秦の始皇帝がこ の温泉に入ったと言う話も広く伝えられています。唐の玄宗皇帝が747年にこの温泉地に造営した本格的な宮殿式建物は「華清宮」と名付けられました。
楊貴妃は傾国の名花として名高く、718年蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれ、名は楊玉環と言います。16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、 玄宗の十八番の子、寿王李iの妃となりました。唐の開元二十八年(740年)十月、玄宗皇帝が華清宮に行幸中、宦官の高力士の推薦によって召し出されました。その後、 楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住みました。官名通りに美人で聡明、その上下歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に集めました。745年には 皇后に次ぐ高位の貴妃となりました。それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に華清宮に住み、温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送りまし た。また楊貴妃の姉三人は妹のおかげで宮中に入り、まもなく一族の楊国忠が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めました。華清宮には玄宗と楊貴妃のために蓮花湯と海棠湯という専用の浴室も造られました。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し、白い玉石で魚、 竜、雁、蓮の花などの形を彫刻し、十八の浴室を飾りました。特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているようだったと伝えられています。飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもありました。この殿の南に九竜池があり、昔、温泉の湯が流れ注い でいた池です。玄宗と楊貴妃は飛霜殿の前に立って、池から湯気の立っている風景を観賞しながら、語り合いました。この情景は唐代の風景画にも描かれていま す。貴妃池とは彼女の専用の浴槽で、海棠の花の形をしています。楊貴妃は茘枝が大好きだったので、馬で600キロも離れた蜀州から長安に運んだという話があります。唐代の有名な詩人白楽天は、玄宗と楊貴妃の華清宮におけるロマンスを素材にして長編の叙事詩「長恨歌」を作りました。「春寒くして浴を賜う華清宮、 温泉の見ず滑らかにして凝脂を洗う」
華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っています。1936年12月、蒋介石は南京から西安に来ました。その目的は楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やし、この二人の将軍を督戦するためでした。蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12 月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、寝巻きのままで窓を乗り越え、山腹に逃走しました。山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時 頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉しました。張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請し ました。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二回「国共合作」が実現しました。五間庁の窓には今も当時の弾痕 が残っています。山腹には記念のため、石造の東屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられました。
現在の華清宮には温泉の湯元が四ヶ所あり、一時間の湧出量は112トンです。温泉は摂氏43度、その名かに石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどの九種類の有機物質が含まれていて、リューマチ、関節炎、肩こりや皮膚病に効能があります。
最近発見された唐の太宗皇帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの著名人の浴槽の遺跡の上に古典的な建物が作られました。尚、飛霜殿の前に 立って眺望すれば美しい風景の庭園に広い池があり、朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保っている建物が点在し、枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代に ロマンスが偲ばれます。
驪山の頂上には狼煙代も一点あります:周の幽王は褒似を溺愛したが、一度も笑わないのを苦にしていました。ある日、手違いで外敵侵攻を知らせる烽火が打ち上げられて、四方から駆けつけてきた武将たちが間違いと知ったときに褒似は笑いました。 幽王は褒似が笑う顔を見たいがために何度も烽火をあげさせた。 さらに、皇后と太子の宜臼を廃し、褒似とその生んだ伯服を立てようとしたため、皇后の父親申侯は西戎と連合して周を攻めた。急いで烽火をあげたが、虚報に懲りて救援の諸侯は集まらず、幽王は殺され、周は滅亡したと伝えられている。
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